言靈
日語寫法 | |
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日語原文 | 言霊 |
假名 | ことだま |
平文式罗马字 | Kotodama |
言靈(言霊:ことだま)一詞指的是在日本被認為存在於語言中的精靈或靈力 。《大辭泉》等辭典將其定義為古代日本人相信存在於言語中不可思議的力量,認為能使說出的話語實現[1]。古代的言(こと)同時指「言語」和「事柄」[2],暗示了言與事之間存在著緊密的聯繫。言靈的核心信念是,說出的話語能夠影響甚至決定事件的發生[3]。
言靈信仰
[编辑]在日本,與言靈信仰最為接近的神祇,據信應是指在《古事記》中所出現一言主神:「吾、雖惡事一言,雖善事一言,皆以言斷之神(吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神)。」[4]
追朔起源
[编辑]對語言力量的信仰在日本有著悠久的歷史,可以追溯到文字記錄出現之前[5]。這種信仰與萬物有靈論(animism)相關,認為包括言語在內的一切事物都寄宿著靈魂。言靈的起源也可能與巫術儀式中使用的咒語和念誦有關[5]。
神祇的定義
[编辑]一言主神之名「一言主」(Ichikotōnushi)可從其漢字構成進行解析:
其名直接暗示了這位神祇的特性,即以其單一的言語展現其權威與力量[6]。祂被視為掌管言語(言葉:kotoba)力量的偉大神祇[7]。根據《大辭泉》的記載,一言主神是位於大和國葛城山的神祇,以一語斷定善惡的託宣神而聞名[8]。祂的神名解釋與《古事記》中記載的「言離(kotosaka)」息息相關,言離有多種讀法與解釋,強調了神祇宣告的決定性[6]。
跨文化
[编辑]在英文中,則包含了「soul of language」、「spirit of language」、「power of language」、「power word」、「magic word」、「sacred sound」等,這些涵義。在言靈學,更拓展為以日文的五十音,分別對應到《古事記》中的諸神,賦予不同作用的涵義。
言語與語言之神
[编辑]在其他文化中,也存在著與言語、語言或知識相關的神祇。例如,印度教的辯才天女(Saraswati)是知識、創造力和言語的女神,常與口語相關,並被認為創造了梵文1。這與言靈中語言的神聖性和力量有相似之處。古埃及神話中的透特(Thoth)是知識、智慧、書寫之神,有時被認為是透過語言的力量創造了自己22。印度教的瓦克(Vāc)是言語的化身,被視為吠陀經的母親333。希臘/羅馬神話中的赫耳墨斯(墨丘利)是語言、學習和口才之神4444。伏都教中的帕帕萊巴(Papa Legba)則是言語、溝通和理解的羅阿神55555。
對語言力量的信仰
[编辑]對語言力量的信仰是跨文化普遍存在的現象1。西方哲學和宗教中的「逻各斯」(logos)指的是統治宇宙的神聖言語或理性22。西方傳統中也有「阿布拉卡達布拉」(Abracadabra)這樣的魔法咒語333。雖然薩丕爾-沃爾夫假說(Sapir-Whorf hypothesis)認為語言塑造思想和感知,是一個更複雜和有爭議的議題4444,但這些例子都表明了人類對於語言力量的普遍認知。
言靈與真名
[编辑]「言靈」和「真名」是兩個既有聯繫又有區別的概念,都涉及到語言、名稱與力量之間的關係,常見於神話、民俗信仰及奇幻文學中。
真名
[编辑]真名(True Name / まな)指的是某個存在(人、神、精靈、惡魔、甚至物品)其本質所對應的、獨一無二且通常是秘密的名稱。知道一個存在的「真名」,就等於掌握了其本質,從而能夠對其產生影響、加以控制、束縛或召喚。這個名字往往與其出生、本質或命運緊密相連。
概念
[编辑]這個概念廣泛存在於世界各地的神話、魔法傳說和奇幻文學中,並非特定於單一文化。雖然日語中也有「真名(まな)」一詞,有時指代漢字相對於假名的用法,但在奇幻語境下通常指 True Name 的概念。
來源
[编辑]「知道真名便可控制」的概念在其他文化中更為突出。雖然兩者都涉及語言與力量,但將「知曉真名即可驅使萬物」明確歸於「言靈的領域」的核心定義,更像是後來的詮釋或特定作品中的設定,而非古代文獻對言靈本身的原始定義。
例如古埃及神話(伊西斯與拉的真名)、猶太祕傳(上帝的祕名)以及大量的歐洲魔法傳說和現代奇幻文學(如娥蘇拉·勒瑰恩的《地海傳說六部曲》系列是此概念的經典範例,或諸多虛構作品中,例如在西川秀明的漫畫《惡魔之心》,都曾出現真名的應用。
參考資料
[编辑]- ^ 今野 真二. 江戸の国学者によることば研究。拠り所としての言霊。. webちくま. 2020-11-17 [2025-04-25] (日语).
「日本には古来、言霊の考え方があり、言葉には不思議な力が宿るとされた」(二〇二〇年八月四日『朝日新聞』朝刊「天声人語」欄)というような言説を目にすることは少なくない。「コトダマ」という語は現代においても案外使われているように思われる。しかし、よく考えてみると、「コトダマ」という語がいつ頃から使われ始め、それは日本語の中でどのように使われていったのか、ということや、日本文化の中で、どのように理解されていたのか、ということについては、あまり話題にならないように思われる。
- ^ 加藤良平. 上代語「言霊」と言霊信仰の真意について. ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ. 2023-07-09 [2025-04-25] (日语).
言霊という言葉は、今日、ひとり歩きしている。上代文学研究事典に、「言語に宿ると信じられた霊力のこと。汎世界的に存在する原始的観念の一つで、万物に霊がこもるとするア二ミズムの思考による。一般には「言語精霊」と説明されている……。……コト(言)がコト(事)であるとするわが国の言語のあり方は、同時にコトバ(言葉)の力によって未来のコトガラ(事柄)を左右することができるという言語に対する信仰の存在をも説明している。ゆえに言霊の信仰は、言語伝承の面だけでなく、古代の民俗生活全般にわたってその行動を律する規範ともなっていたと考えられる。……」(271~272頁、この項、伊藤高雄)とあり、また、万葉ことば事典に、「言葉の神霊。現実に影響を及ぼす言葉の力を認識し、これの霊威を表す語。上代においてコトは「事」と「言」の両者に通じ、言は事を左右し、事は言に表現されると考えられた。この語のコトの表記に、「事」「言」の二者が使用されているところからもそれがうかがえる。」(186ページ、この項、寺田恵子)とある(注1)。言葉に呪術的機能があるから「のろひ」や「とごひ」はあるのだと演繹されそうだが、それが言葉全般に及んでいたら、言葉にはいちいち霊が宿っていることになり、冗談一つ言うのも気が引けることになる。何よりこういった考え方には、コトダマという語のタマの要素が含まれていない。タマというからには玉(珠)の意を比喩的にであれ伝えているはずである。
- ^ 平井かおる(日本の神道文化研究会). やまとことば~心を癒す美しい日本語の意味と語源が知りたい. ハッケン!ジャパン編集部. 2020-10-28 [2025-04-25] (日语).
「ことば」の語源は、奈良時代以降に生まれた「ことのは(言の葉)」。それ以前にどう表現していたかというと、「こと」。ただそれだけ。 物事や事柄などに含まれる「事」、こちらも古くから「こと」。その昔、日本では「言葉」と「出来事」は、どちらも「こと」という同じ言葉で表されていた。 どうして同じなのかというと、日本に古くから伝わる「ことだま(言霊)信仰」というものがある。口に出した言葉、心に思った言葉は、本当の事として実現してしまう、そんな風に昔の日本人は考えたのだ。 うれしいこと、たのしいこと、嫌なこと、悲しいこと。言葉に宿る神聖な力が、実際の物事をも動かす。 ネガティブな言葉は、ネガティブな事態を招くかもしれない。そう考えたら、使うのを極力避けたくなるはずだ。
- ^ ID:11236; 広報. 市長コラムタイトル「一言主」の由来. 長浜市未来創造部秘書広報課. 2022-12-20 [2025-04-25] (日语).
- ^ 5.0 5.1 RICHTER, U. (2009). Rectification of Names and The Soul of the Word: Some Thoughts on the Origins of Different Communication Patterns in China and Japan. Abhandlungen für die Kunde des Morgenlandes, 69, 171-205.
- ^ 6.0 6.1 葛城之一言主之大神. 國學院大學. 2017 [2025-04-25] (日语).
一言主之大神は、『古事記』の中で「言離」の神であると述べており、この言葉の意味が一言主之大神の神名解釈に大きく関わる。「言離」は、「コトサカ」・「イヒハナツ」・「コトハナツ」などのように訓みが分かれる。「コトサカ」と訓む場合では、『日本書紀』神代上・第五段・一書第十の「泉津事解之男」(ヨモツコトサカノヲ)や孝徳天皇大化二年三月条の「事の瑕婢」(コトサカノメヤツコ)から、「言」は借字で「事」とし、悪事からも善事からも関係を絶つ(離れる)意という説がある。また、『万葉集』巻七・一四〇二や巻十三・三三四六の「こと放けば」を参考に、別に離すと解釈して「決断」の意にとり、この神の託宣が吉事か凶事か一言で決定されるところからの神名とする説もある。「イヒハナツ」と訓む場合は、言い放つ意で、決定する神とする説、言ひ離つを託宣する意とし、一言口にしたことが、必ず実現するという言霊信仰の神という説がある。そして、「コトハナツ」と訓む場合も、言離つ意で、託宣する神と説明される。 上記の他に、雄略天皇の「恐し、我が大神。うつしおみに有れば、覚らず」という言葉の「うつしおみ」も、この神の解釈に関わる。これは、はやくには「現大身」、つまり、一言主之大神が人と同じ体をもつ現人神であることを指す言葉と論じられてきた。しかし、上代特殊仮名遣いの観点からすると、「大身」の「ミ」は乙類に分類されるが、当該の「ミ」は甲類に分類されて「大身」とは取れないため、ウツセミ・ウツソミなどと関連する語と解釈されるようになる。また、「オミ」を「臣」と捉え、『類聚名義抄』に「臣」の訓みとして「ヒト」があることをもとに、現人神と解釈する説もある。なお、「宇都志意美」は一言主之大神を指す言葉でないという見解もある。「宇都志意美」を現実の臣下の意と捉え、一言主之大神に現実の人間の臣下がいると捉える説、人間を現世において神に仕える存在と捉え、雄略天皇自身を指すという説などである。
- ^ 加茂氏人. 一言主神社について. 三竹山 一言主神社. 1360-March [2025-04-25] (日语).
「言い離つ神」とは、原文に「言離神」と書き、これは「コトサカノカミ」とも訓むことができます。この「コトサカ」とは「事解」とも書き、言葉によって物事を解決するという意味があります。つまり、一言主大神は悪事も善事も一言のうちに解決する力ある神であるとお名告りになられたともいえるのです。 ここから一言主大神は力ある言葉の神、また何事も解決する万能の神として、中世には正一位の神階を送られる(延文5年(1360年)葛城一言主神社)など時の朝廷からも厚く崇敬されました。また当社由来にもあるように、ただ一言の願いでもその言葉を疎かにせず聞き届ける神として、広く万民に信仰される神ともなったのです。
- ^ 一言主神(読み)ヒトコトヌシノカミ. デジタル大辞泉. [2025-04-25] (日语).
大和の葛城山の神。悪い事も善い事も一言で言い放つ託宣神とされる。奈良県御所市にある一言主神社に祭られている。葛城神。
外部連結
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